ユカリの雑記帳

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天気の子、考察。あの世界で『天気』はなんのメタファーだったんだろう?(ネタバレあり)




天気の子、見てきました。個人的には滅茶苦茶面白かったので、ガッツリネタバレを含めた考察を書きます。

 

ネタバレしかないので、まだ見てない方は十分に注意してください。

 


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天気の子は、「社会に必要なもの以外認めない世界」を否定し、「ムダが許される世界」で、ほだかとひなが「小さな幸せ」を得る物語だと思います。

 


●主人公たちは、なんなのか

 

まず、昨日友人と話していて、天気の子は「大人と子供の対立」じゃないかと言われました。

 

なるほどと思ったんですけど、じゃあなんで主人公陣営にスガという42歳の男がいたんでしょう?

 

もし大人と子供の対立だとしたら、約束のネバーランドみたいに大人を排除した子供だけの陣営を作ればよかったのではないでしょうか?

 

 

じゃあ主人公陣営に共通する部分ってなんだろう? と考えたときに見えてくるのは

 

「便利さを求める社会に“必要”とされていないこと」

 

ではないでしょうか。

 

ほだかは「自分の住んでいる場所」に「生きづらさ」を抱えています。


ひなもまた、「バイト」という「社会に必要とされる場所」からはじき出されています。


スガは「ムーのライター」という滅茶苦茶マニアックな仕事をしてますし、なつみは「就職活動」に失敗し続けています。

 

そもそも、「子供」って今すぐ社会に必要なわけじゃないです。


未来を豊かにし得るけど、「今」だけを見たらコストがかかるだけの存在。

 

 

つまるところ、彼らは「普通の社会」にとって必要とされるピース(社会的マジョリティ)ではないわけです。 

 

故に、彼らは生きづらさを抱え、「貧しさ」の中で生きています。社会に必要とされない以上、お金があるはずもないです。


裕福な人は一人もいない。

 


そして、主人公ほだかに感情移入がしにくく作られているのも、同じ理由からだと思います。


ほだかは「何故家出をしたのか」が結局のところ描かれていません。主人公に感情移入させたいなら、その描写は必要だったと思います。


さらに、終盤は「狂人か?」と思うような行動を取ります。

 

 

これらは、「社会に必要とされている人々」から見た「社会に必要とされない人」の姿ではないかと思うのです。

 

だからこそ、感想において「主人公が無理」という意見が多かったのではないかと思います。

 

 

●天気は何を表しているのか?


ここから少し話を変えて、「天気」の話に移ります。

 

最初、東京に雨が降り続いていますが、その事はあまり否定的に書かれていません。


ほだかは船の上で雨にうたれて笑ってますし、猫という可愛い生命体の名前もアメです。


雨の降り続ける東京で、ほだかは「苦しさが減った」というようなことを言っています。


つまり、作中で雨は否定されているものではないのです。

 

 

むしろ、作中で否定的に描かれていたのは、ひなが人柱になって作られた「完全なる快晴」です。

 

この「完全なる快晴」は、ひなとほだかがお天気サービスで作ってきた、「雨の中の小さな晴れ」とは別物として描かれています。光の量、範囲ともに明らかに格が違います。ついでに温度も滅茶苦茶上がりました。

 

 

じゃあ、これらの天気はなんのメタファーなんでしょう?

 

 

私は

 

「雨の世界」は「少し不便でムダが許される世界」

 

「雨の中の小さな晴れ」は「少し不便な世界にある、小さな幸せ」

 

「完全なる快晴」は「過剰な便利さや過剰な幸せを求め、社会に必要とされないムダを排除する世界」  

 

これらのメタファーとして描かれていたのではないかと思います。

 


まず「雨の世界」ですが、基本ちょっと不便です。傘をささなきゃいけないし、濡れるし、あまり良いことはありません。

 

でもその世界では、「快晴の世界」では必要とされない傘やカッパの存在が許されます。

 

つまり、「快晴の世界」ではただのムダなものが、「雨の世界」だと存在を許されるわけですね。

 


こう考えると、猫に「アメ」という名前がついている理由もわかります。

 

なにせ、猫は人間が生きていくだけなら必要のないものです。

 

それどころか、居るだけで世話もしなきゃいけない、餌をやらなきゃいけないとやたら大変です。


明らかに、「ムダ」なものでしょう。

 

でも、猫は可愛いです。癒やされます。世話をしなきゃいけない「少しの不便」も、生きていくのに必要ない「ムダ」も猫の可愛さの前では吹っ飛びます。


だからこそ、猫に「雨の世界」という、「少し不便でムダが許される世界」の名前がつけられたんじゃないかなーと思います。

 

そして、そんな「ちょっと不便な世界」における「小さな幸せ」が、作中ではお天気ビジネスで作られる「雨の中の小さな晴れ」だったのだと思います。

 

この晴れは範囲も狭く、温度を上げるほどの光量もありませんが、そこにいる人々を幸せにしています。

 

お天気ビジネスに温かさを感じた人も多かったのではないでしょうか?

 


では、ひなが人柱になった「完全なる快晴」はどうでしょうか。


喜んでいる人たちはいます。警察の人々やツイッターで喝采を上げる人々。


しかし、ほだかやスガ、ナギ、なつみに笑顔はありません。ひなに至っては人柱です。

 

最初に主人公陣営は「社会に必要とされていない人たち」だと書きました。その存在たちは皆一様に「快晴の世界」に叩き潰されます。

 

私は「完全なる快晴」の世界は、「過剰な便利さや過剰な幸せを求め、社会に必要とされないムダを排除する世界」だと考えています。

 

「過剰さ」は、圧倒的な光量や範囲で描かれています。お天気ビジネスでの「小さな幸せ」と比べても、明らかにあの光量は過剰です。温度も上がりますし。

 

そして、あの世界ではカッパや傘といった無駄なものはきれいに排除されています。「雨の世界」では存在が許されても、「快晴の世界」ではただのムダですからね。

 

そういった「その社会に必要とされている」ものしか認めない社会が、「完全なる快晴」の世界なのではないでしょうか。

 

私の頭によぎるものがありました。「必要ない公務員は削る」「役に立たない研究などいらない」……それ以外にも色々。ムダが許されない社会は、決して遠い世界ではありません。

 

 

そんな「完全なる快晴」の世界では、「社会のムダ」は生きていけません。

 

その世界では「ほだか」という「社会に必要とされない存在」など、ただの狂人でしかないのです。

 

ひなが消えてしまったのも、その世界に「ひな」という存在は居られないから消えたのでは? と思います。

 

それに加えて、ムーとかいう社会にとってクソの役にもたたない雑誌も廃れていくわけです(スガの事務所が水浸しになるシーンからもそう読み取れます)。

 

 

だからこそ、ラスト、ひなの存在を願って「雨の世界」を叩き付けたのは、「少し不便で、無駄が許される世界」でないと、ひなのような人は存在できないってことを伝えたかったからではないかと思います。

 

「雨の世界」を叩き付けたのは「セカイ系」のように「世界とひなを天秤にかけた結果」ではなく、「今の世界で生きてけないから、世界のあり方を変更した」ということではないかと思います。


そもそも世界とひなを天秤にかけた代償が三年の雨ってあまりに安すぎるし、ほだかくんも「世界と彼女はどっちが大切か」なんて葛藤してないし。

 

だからこそ、「セカイとカノジョ」を天秤にかけて選び取る「セカイ系」の文脈で考えると、明らかに文脈が狂っているわけです。

 

それもふまえて、「セカイを壊した」といった表現ではなく「セカイのあり方を変えた」と表現されたのではないかと思います。

 

そしてそもそも、世界を壊すことは新海先生にはできなかったんじゃないかと思います。


言うまでもなく、地球規模で見たらほだかやひなよりももっと大変な人たちがいます。 

 

日本という国である程度の便利さを享受している人間にとっては、壊せるものはアレが限界だったのではないかと思いました。

 


●世界のあり方が変わった後。ラストシーンの意味とは?

 

こうして「雨の世界」になって時がたち、人々も「雨の世界」になれてきました。


道行く人たちも傘を指しながら笑い合っていて、明らかに「少しの不便」が許容されてきています。

 

そうやって「少し不便な世界」が許されるようになったことで、世界の在り方はたしかに変わったと思います。

 

 

水上バスという「快晴の世界ではムダなもの」が使われるようになりました。


「過剰な便利さや幸せ」を求めて埋め立てられてきた場所が海へと戻りました。


そして、ムダの塊みたいな「ムーの記事を書く仕事」をしていたスガの会社が大きくなりました。

 

 

これらは、ムダを排除していく「快晴の世界」ではまずあり得なかったことでしょう。

 

 

その中で、最後にひなとほだかは再開するわけです。

 

そのシーンで晴れたことに疑問を持つ人もいるかと思います。「あんなに簡単に晴れていいのか?」と。

 

でも、あのシーンで空が明るくなったのは、「快晴の世界」が戻ってきたわけではありません。


あの晴れはお天気ビジネスでやっていたときと同じ、「雨の中の小さな晴れ」。


つまり、「普段は少し不便な世界にある、ちょっとした幸せ」の象徴として空は明るくなったのです。

 

社会に必要とされていなかった二人は、「ムダが許されるようになった世界」において存在が許され、最後に再会という「小さな幸せ」を感じて終わる。


「天気の子」とはそういう話だったのではないでしょうか。

 

(終)

 

このクソ長い文章を最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。